渡辺淳一氏の死を悼む 水晶体・六華 芸術の毛皮
「阿寒に果つ」の作者である渡辺淳一氏が、平成26(2014)年4月30日午後11時42分に亡くなったと、本日5月5日に各報道機関から報道されました。80歳であり、前立腺がんのためのご逝去とのこと、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
今後、渡辺淳一氏の追悼文が、さまざまな方によって書かれることと思います。その中で、渡辺淳一氏に関わるさまざまな思い出が語られることでしょう。
渡辺淳一氏の訃報に接し、渡辺淳一氏と面識も接点もない私ですが、氏の「阿寒に果つ」創作に与えた青銅文学の影響にかかわる事柄で、広く知られていないことを、2点 ここで指摘することで、渡辺淳一氏の追悼をさせていただきたいとおもいます。
(1) 六角形の水晶体=六華
(2) 加清純子をモデルとした最初の小説「藝術の毛皮」(加清純子作)
渡辺淳一氏は、高校時代の同級生であり、初恋の人であった加清純子をモデルとして、小説「阿寒に果つ」を書きました。
(1)六角形の水晶体=六華
<小説に突然現れる「六角形」「水晶体」のイメージ>
「阿寒に果つ」の中で渡辺淳一は登場人物に次のように語らせています。
(文は講談社文庫渡辺淳一セレクション シリーズ「阿寒に果つ」による)
「(略)私は自分が知っている純子は、純子のほんの一面だけであったような気がしてきたのです。彼女はたとえば水晶の多面体のように、さまざまな面を持っていて、私にはその一つの面だけを垣間見せて、去っていったような気がするのです」
(第二章 ある画家の章 より)
蘭子を含めて、これで私は、純子と親しかった五人の人々に逢ったことになる。それに私自身を含めると、丁度六つの方角から純子を見詰めたわけである。
もし純子が水晶の結晶のように六面体であるならば、これで純子の実体は、すべて見透せるはずである。
(終章より)
このように、渡辺淳一氏は、「阿寒に果つ」で時任純子の物語を、5人の男性と姉をくわえた6人の視点から「水晶の結晶」のように「六面体」として描いたのです。
ここに疑問が起こります。
・「阿寒に果つ」主人公の時任純子のモデルである加清純子は、5人より多くの男性に強い影響をあたえ、かかわりを持っていたのに、なぜ「阿寒に果つ」という小説に創作をおこなうにあたり、関わる視点をわずか6人の視点に絞ったのでしょうか。
・そして、なぜ「水晶」という表現を用いたのでしょうか。
<ヒントは青銅文学の中に>
ヒントが、青銅文学に書かれていると思います。
青銅文学第5号は、「詩特集」として「加清純子」への追悼詩が5編収録されています。
そのうちの「結晶」(石谷春一作)より一部を引用します。
-----------------------------------------------
六角形の
水晶体の様な結晶が降った
略
六角形が重なり連つて
命綱の模様を造った。
略
六角形の結晶と倦怠が満して
只、時を彫む、セコンドの音だけが
略
---------------------------------------------------
このように、加清純子の死と6面体である水晶と結びつけた例は、渡辺淳一氏が初めてではなく、加清純子の死の年昭和27年9月に刊行された青銅文学の中で石谷春一氏が用いている例が最初です。
ここで書かれた「六角形の水晶体の様な結晶」とは具体的には何でしょうか。それは、雪の結晶のことと考えるのが自然だと考えます。その理由は、加清純子の死と直接結びつけて考えるならば、彼女が雪の結晶の下で生涯を閉じたからと説明することができます。
しかし、同時に、彼女と青銅文学同人そして渡辺淳一氏にとっては、6角形である雪の結晶は、母校である札幌南高等学校(およびその前身校である札幌第1高等学校、札幌第1中学校等)の校章である「六華」(雪の結晶)を思い起こさざるを得ない存在であり、このことも彼らの脳裏から離れないイメージであることも指摘しておきたいと思います。
<六華と純子の死の影響>
加清純子の阿寒の雪の中での死は、雄阿寒岳の画が開いた芸術活動を、雄阿寒岳の絵で閉じ、そして雪の結晶の中に自分を閉じ込めることで、永遠に同級生の心に六華の印象とともに刻んだことになります。渡辺淳一は後に「あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか。」(「阿寒に果つ」序章より)と記します。
かつて「阿寒に果つ」を読んだ後に私の心には一つの疑問が残りました。それは、「驕慢で僭越な死」という強い表現を使う程の「計算」がある物語であるとは思えないのに、なぜこのように渡辺淳一は記したのだろうかという疑問です。これが、渡辺淳一にとって同級生であり小説のモデルになった加清純子の実像に迫ろうとした動機の一つになっています。
加清純子が、雪の結晶を通じて母校とイメージを結びつけるメッセージを残したとすれば、それは計算されつくされたと渡辺淳一氏が考えても無理の無いことと感じます。そして、その雪の結晶=六華の印象があればこそ、雪の中の死であるにもかかわらず純子を描くのに「雪の結晶」の印象を用いず「水晶体」の印象を用いることで、母校である札幌南高校での現実の印象から切り離そうと試みたのではないかと窺われます。
(2) 加清純子の私小説「藝術の毛皮」
渡辺淳一氏が加清純子をモデルとして「阿寒に果つ」を発表していますが、渡辺淳一氏は「影絵」でも加清純子をモデルとして登場させています。また、渡辺淳一氏と高校で同期であった荒巻義雄氏は小説「白き日旅立てば不死」で加清純子をモデルに「加能純子」を描いています。
これらの作品に先立って、加清純子をモデルとした小説が存在し、青銅文学に発表されていたことは、言及されていません。
青銅文学の編集者及発行人である、樫村幹夫の手元には、加清純子の原稿がいくつか残されていました。その中から幾つかが、加清純子の死後に樫村幹夫の手により青銅文学に公表されていきます。
そのような加清純子の作品の一つに「藝術の毛皮」があります。
この作品は、小説家を志す姉景子、画才に恵まれた妹眞矢と、この二人を取り巻く、女学校の生物教師、美術教師、著名な画家などとの関係を描く小説です。この短い概要からも、加清純子自身の身辺、あるいは「阿寒に果つ」に描き出される人間模様と重なりあうことを推測いただけるとおもいます。
この「藝術の毛皮」が発表された後、加清純子の死と生前の人間関係などと「藝術の毛皮」のプロットとの対比が多くの人の関心を呼んだことを、後に樫村幹夫は青銅文学の中で記しています。
渡辺淳一氏は、青銅文学の他、加清純子が発表した文章や絵画を調査し「阿寒に果つ」の創作に臨んでおり、そうすると、当然この加清純子作「藝術の毛皮」からもまた強い影響を受けて創作にあたったといえるでしょう。
改めて、渡辺淳一氏の死について
昨年後半から、諸情報を考え、氏御存命のうちに、加清純子関係の文献リストをまとめて公表することを、内心の目標としていました。4月28日、学生への講義の前に、最後の資料に目を通し調査に終止符を打ったところでした。
公表に、間に合わず、残念に思っています。
渡辺淳一氏が「阿寒に果つ」を記すことで、周囲の多くの人に影響を与えながら若くして死んだ加清純子の存在が後まで多くの人に記憶されることになりました。
渡辺淳一氏は、自分の作品を通じて自分が作り上げた「時任純子」の印象で、加清純子の印象が形成されていくことをどう感じていたでしょうか。作品は、公表することで自分の手を離れた後、自分とは別の存在となっていくことを渡辺氏はよく理解していたでしょうし、そのことを正面から受け止めていたことと思います。
渡辺淳一氏は以前より前立腺がんであることを明らかにしていたそうですが、2013年7月3日に自らの病状(性機能不全)を報道機関に告白しています。渡辺氏は自らの経験を相当忠実に小説にしていることから、渡辺氏の病気は長期にわたり進行する病状だろうと推測していました。2013年1月より日経に私の履歴書が連載され、その中で相当に生生しい記述を残していることからも、渡辺氏は自分の死が遠くないと考えているのではないかと推測しました。
前立腺がんは、数年かけて進行するゆっくりとした悪性腫瘍で、治療には男性ホルモンの作用を止める薬が用いられます。このため、治療には性機能不全を伴います。ホルモン療法で進行が抑制できなくなった場合などに抗がん剤による治療などがおこなわれます。
実際に、2013年後半よりメディアへの露出が減少しておりに、写真でも体力の衰えが顕著にみられたため、渡辺氏の病状が進行していることを感じ、ゆっくり10年ほどかけて集めてきた、加清純子の資料調査を終結させるべく、割く時間を増やしていたところでした。
その後も、渡辺淳一氏の動静を伝えるブログ「楽屋日記」でも、渡辺淳一氏の動静を伝えることが減り、そしてブログを記している人物は渡辺淳一氏の事務所を計画的にかつブログ上突然と退職します。メディアでも渡辺氏の動静についての報道が途絶え、渡辺氏の死が近いものと推察していました。
「間違いなくあれは冷たく孤独な死であった。最果ての、誰にも知られぬ死であった。しかし死は誰にとっても独りのものである。大勢の人に看とられようと、ただ一人で原野に果てようと、死は死んでいく人だけのものである。」
(「阿寒に果つ」 序章より)
生と死をみつめつづけた、そして自分の病と死をもみつめつづけた、医師 渡辺淳一氏のご冥福をこころよりお祈り申し上げます。
平成26年5月5日 聖護院草庵主人
今後、渡辺淳一氏の追悼文が、さまざまな方によって書かれることと思います。その中で、渡辺淳一氏に関わるさまざまな思い出が語られることでしょう。
渡辺淳一氏の訃報に接し、渡辺淳一氏と面識も接点もない私ですが、氏の「阿寒に果つ」創作に与えた青銅文学の影響にかかわる事柄で、広く知られていないことを、2点 ここで指摘することで、渡辺淳一氏の追悼をさせていただきたいとおもいます。
(1) 六角形の水晶体=六華
(2) 加清純子をモデルとした最初の小説「藝術の毛皮」(加清純子作)
渡辺淳一氏は、高校時代の同級生であり、初恋の人であった加清純子をモデルとして、小説「阿寒に果つ」を書きました。
(1)六角形の水晶体=六華
<小説に突然現れる「六角形」「水晶体」のイメージ>
「阿寒に果つ」の中で渡辺淳一は登場人物に次のように語らせています。
(文は講談社文庫渡辺淳一セレクション シリーズ「阿寒に果つ」による)
「(略)私は自分が知っている純子は、純子のほんの一面だけであったような気がしてきたのです。彼女はたとえば水晶の多面体のように、さまざまな面を持っていて、私にはその一つの面だけを垣間見せて、去っていったような気がするのです」
(第二章 ある画家の章 より)
蘭子を含めて、これで私は、純子と親しかった五人の人々に逢ったことになる。それに私自身を含めると、丁度六つの方角から純子を見詰めたわけである。
もし純子が水晶の結晶のように六面体であるならば、これで純子の実体は、すべて見透せるはずである。
(終章より)
このように、渡辺淳一氏は、「阿寒に果つ」で時任純子の物語を、5人の男性と姉をくわえた6人の視点から「水晶の結晶」のように「六面体」として描いたのです。
ここに疑問が起こります。
・「阿寒に果つ」主人公の時任純子のモデルである加清純子は、5人より多くの男性に強い影響をあたえ、かかわりを持っていたのに、なぜ「阿寒に果つ」という小説に創作をおこなうにあたり、関わる視点をわずか6人の視点に絞ったのでしょうか。
・そして、なぜ「水晶」という表現を用いたのでしょうか。
<ヒントは青銅文学の中に>
ヒントが、青銅文学に書かれていると思います。
青銅文学第5号は、「詩特集」として「加清純子」への追悼詩が5編収録されています。
そのうちの「結晶」(石谷春一作)より一部を引用します。
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六角形の
水晶体の様な結晶が降った
略
六角形が重なり連つて
命綱の模様を造った。
略
六角形の結晶と倦怠が満して
只、時を彫む、セコンドの音だけが
略
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このように、加清純子の死と6面体である水晶と結びつけた例は、渡辺淳一氏が初めてではなく、加清純子の死の年昭和27年9月に刊行された青銅文学の中で石谷春一氏が用いている例が最初です。
ここで書かれた「六角形の水晶体の様な結晶」とは具体的には何でしょうか。それは、雪の結晶のことと考えるのが自然だと考えます。その理由は、加清純子の死と直接結びつけて考えるならば、彼女が雪の結晶の下で生涯を閉じたからと説明することができます。
しかし、同時に、彼女と青銅文学同人そして渡辺淳一氏にとっては、6角形である雪の結晶は、母校である札幌南高等学校(およびその前身校である札幌第1高等学校、札幌第1中学校等)の校章である「六華」(雪の結晶)を思い起こさざるを得ない存在であり、このことも彼らの脳裏から離れないイメージであることも指摘しておきたいと思います。
<六華と純子の死の影響>
加清純子の阿寒の雪の中での死は、雄阿寒岳の画が開いた芸術活動を、雄阿寒岳の絵で閉じ、そして雪の結晶の中に自分を閉じ込めることで、永遠に同級生の心に六華の印象とともに刻んだことになります。渡辺淳一は後に「あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか。」(「阿寒に果つ」序章より)と記します。
かつて「阿寒に果つ」を読んだ後に私の心には一つの疑問が残りました。それは、「驕慢で僭越な死」という強い表現を使う程の「計算」がある物語であるとは思えないのに、なぜこのように渡辺淳一は記したのだろうかという疑問です。これが、渡辺淳一にとって同級生であり小説のモデルになった加清純子の実像に迫ろうとした動機の一つになっています。
加清純子が、雪の結晶を通じて母校とイメージを結びつけるメッセージを残したとすれば、それは計算されつくされたと渡辺淳一氏が考えても無理の無いことと感じます。そして、その雪の結晶=六華の印象があればこそ、雪の中の死であるにもかかわらず純子を描くのに「雪の結晶」の印象を用いず「水晶体」の印象を用いることで、母校である札幌南高校での現実の印象から切り離そうと試みたのではないかと窺われます。
(2) 加清純子の私小説「藝術の毛皮」
渡辺淳一氏が加清純子をモデルとして「阿寒に果つ」を発表していますが、渡辺淳一氏は「影絵」でも加清純子をモデルとして登場させています。また、渡辺淳一氏と高校で同期であった荒巻義雄氏は小説「白き日旅立てば不死」で加清純子をモデルに「加能純子」を描いています。
これらの作品に先立って、加清純子をモデルとした小説が存在し、青銅文学に発表されていたことは、言及されていません。
青銅文学の編集者及発行人である、樫村幹夫の手元には、加清純子の原稿がいくつか残されていました。その中から幾つかが、加清純子の死後に樫村幹夫の手により青銅文学に公表されていきます。
そのような加清純子の作品の一つに「藝術の毛皮」があります。
この作品は、小説家を志す姉景子、画才に恵まれた妹眞矢と、この二人を取り巻く、女学校の生物教師、美術教師、著名な画家などとの関係を描く小説です。この短い概要からも、加清純子自身の身辺、あるいは「阿寒に果つ」に描き出される人間模様と重なりあうことを推測いただけるとおもいます。
この「藝術の毛皮」が発表された後、加清純子の死と生前の人間関係などと「藝術の毛皮」のプロットとの対比が多くの人の関心を呼んだことを、後に樫村幹夫は青銅文学の中で記しています。
渡辺淳一氏は、青銅文学の他、加清純子が発表した文章や絵画を調査し「阿寒に果つ」の創作に臨んでおり、そうすると、当然この加清純子作「藝術の毛皮」からもまた強い影響を受けて創作にあたったといえるでしょう。
改めて、渡辺淳一氏の死について
昨年後半から、諸情報を考え、氏御存命のうちに、加清純子関係の文献リストをまとめて公表することを、内心の目標としていました。4月28日、学生への講義の前に、最後の資料に目を通し調査に終止符を打ったところでした。
公表に、間に合わず、残念に思っています。
渡辺淳一氏が「阿寒に果つ」を記すことで、周囲の多くの人に影響を与えながら若くして死んだ加清純子の存在が後まで多くの人に記憶されることになりました。
渡辺淳一氏は、自分の作品を通じて自分が作り上げた「時任純子」の印象で、加清純子の印象が形成されていくことをどう感じていたでしょうか。作品は、公表することで自分の手を離れた後、自分とは別の存在となっていくことを渡辺氏はよく理解していたでしょうし、そのことを正面から受け止めていたことと思います。
渡辺淳一氏は以前より前立腺がんであることを明らかにしていたそうですが、2013年7月3日に自らの病状(性機能不全)を報道機関に告白しています。渡辺氏は自らの経験を相当忠実に小説にしていることから、渡辺氏の病気は長期にわたり進行する病状だろうと推測していました。2013年1月より日経に私の履歴書が連載され、その中で相当に生生しい記述を残していることからも、渡辺氏は自分の死が遠くないと考えているのではないかと推測しました。
前立腺がんは、数年かけて進行するゆっくりとした悪性腫瘍で、治療には男性ホルモンの作用を止める薬が用いられます。このため、治療には性機能不全を伴います。ホルモン療法で進行が抑制できなくなった場合などに抗がん剤による治療などがおこなわれます。
実際に、2013年後半よりメディアへの露出が減少しておりに、写真でも体力の衰えが顕著にみられたため、渡辺氏の病状が進行していることを感じ、ゆっくり10年ほどかけて集めてきた、加清純子の資料調査を終結させるべく、割く時間を増やしていたところでした。
その後も、渡辺淳一氏の動静を伝えるブログ「楽屋日記」でも、渡辺淳一氏の動静を伝えることが減り、そしてブログを記している人物は渡辺淳一氏の事務所を計画的にかつブログ上突然と退職します。メディアでも渡辺氏の動静についての報道が途絶え、渡辺氏の死が近いものと推察していました。
「間違いなくあれは冷たく孤独な死であった。最果ての、誰にも知られぬ死であった。しかし死は誰にとっても独りのものである。大勢の人に看とられようと、ただ一人で原野に果てようと、死は死んでいく人だけのものである。」
(「阿寒に果つ」 序章より)
生と死をみつめつづけた、そして自分の病と死をもみつめつづけた、医師 渡辺淳一氏のご冥福をこころよりお祈り申し上げます。
平成26年5月5日 聖護院草庵主人
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