加清純子の足跡を追って(なぜこの時に、なぜ阿寒で釧北峠なのか、なぜ凍死なのか)

 (このページは、私の評価を多く含む記述から構成しています。)

 渡辺淳一は「阿寒に果つ」の語り手である田辺俊一により時任純子に対する思いとして「あの死は同情するどころか憎んでもいい。 あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。 すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか。」と語らせることで、加清純子の死にたいする自分の思いを表現しています。

 (渡辺淳一がとったインタビューという取材形式を捨てて、渡辺淳一が目にしているであろう範囲の大部分が重なる資料となる)加清純子に関する現在公表されている資料という範囲に限定してではあるもの、加清純子の死に関する疑問を考えてみると、必ずしも「驕慢」「僭越」「計算しつくした」という程ではなく、ある程度綿密な計画はされていたものの、自負と自己への厳しい評価、自己の限界、衝動、偶然の織りなした死であったように私は感じています。

 加清純子の死を巡る疑問を整理すると、時期、場所、方法の3種に区分できるのではないかと思います。これらは、純子の内心にあった動機から選択された結果なので、動機をおもい図るよすがとなるものと思います。

(1)時期

 なぜ、加清純子が、昭和27年1月下旬に死を選んだのか。

 資料を収集し読み進めて、現在では私は幾つかの要因が重なったと考えています。

 まず、背景として、純子の内面には死に対する衝動と憧れが、以前よりあったということは否定しにくいと考えます。

 藤村操が「巌頭之感」を彫り付け、華厳の瀧へ投身自殺して以降、知的と自負する若者の中に自殺に対する肯定的評価が存在していました。純子の死のころ、北海道でも、若者の自殺、心中が頻繁におきて、報道されていました。その方法としては、アドルム内服によるものが多いことも、報道されていました。
 また、純子の自殺の前に、北大生が自殺したことが大きく報道されていたことが、純子の死への思いを押したことも否定しがたく思います。この点については、脇哲が、同様の類推を基に「蒼ざめた青春のドキュメント」を記しています。

 確かに、加清準が指摘するように、絵に行き詰まりを感じていたということもあるでしょう。
当時の新聞を読むと、5歳の女児の画才をほめたたえ、展覧会が開かれた記事が掲載されています。
また、加清純子の他にも、札幌の画家のもとで画を学ぶ若い女性は多く、札幌に拠点を置いていた画家が、若い女性画家を連れて北海道の地方都市へ写生へ行っていたことを、地方在住の画家がまぶしく見ていた記録があります。

 そして、岡村昭彦との関係をみれば、釧路で勾留されている岡村昭彦を加清純子が訪ね、新聞記者の取材に対して強く岡村昭彦を弁護する発言をしていますが、相前後して明きらかにされた岡村昭彦の行状は、加清純子の弁護したありようとは相当に差異があることは否定しがたいと考えられます。

 岡村昭彦が、無資格にも拘わらず釧路で診療所を開設したこと目的を、非公然の日本共産党のオルグ活動という政治的目的であった旨の発言があります。この点について、私は疑問を持っています。

(a)岡村昭彦の嫌疑
 岡村昭彦が逮捕された際の嫌疑は、医師法違反(無資格診療)の他、詐欺(医薬品を薬局から詐取したとするもの)、堕胎罪です。近接する時期に根室で非公然活動を行っていた日本共産党活動家が逮捕された場合は、共産党の活動家であることの内偵が行われ、その違法活動に対して逮捕されていることが報じられています。岡村が共産党の非公然活動に従事し、その違法行為に関する捜査であるとするならば、その捜査に時間を相当割くとともに、日本共産党の非公然活動に対する危機感を高めるために、報道にも積極的に嫌疑がリークされたと他の事案から考えるのが妥当です。
 岡村昭彦の活動が、日本共産党の非公然活動であるとするならば、目的ではなく手段の診療行為ではそれほど目立つ活動をする意味はありません。しかし、岡村昭彦は多くの患者を積極的に診療しました。非公然活動であるとすれば、活動に必要な資材(医薬品など)を入手するにあたっても警察の介入を招く可能性のある方法(詐取)を取ることは適切ではありません。

(b)岡村昭彦の前科
 岡村昭彦は外貨に関する犯罪で横浜ですでに有罪判決を受けていました。外貨統制に関する犯罪が政治活動に関連するものとは、俄かには結び付きにくいと考えます。

(c)岡村昭彦の蔵書(思想傾向)
 静岡県立大学の岡村文庫の蔵書構成を調査すると、岡村昭彦が所有していた書籍は相当時期をさかのぼるものもあり、学生時代から読んでいた書籍を保存していたことがうかがわれます。この蔵書のうち1952年以前に発行された書籍には、社会主義に関する書籍は少ないと言わざるを得ません。岡村昭彦は、関心のある事柄については書籍などにより知識を貪欲に吸収していました。その蔵書の中に社会主義に関する書籍が少ないことは、岡村昭彦が共産党の活動家であったとする考え方を支持しがたい否定的な証拠といえると考えます。

(d)共産党の活動家であったとする証言
 岡村昭彦が共産党の活動家であったとする証言は、脇哲、加清準が記しています。この二人の記述では、何をもって岡村昭彦が共産党の活動家であったとするのか、その具体的な札幌における活動については記述を見いだせていません。岡村昭彦が活動家であるとするに足る活動は何であったのか、それは不明確です。


 岡村昭彦と接した人物の岡村昭彦に関する人物評として、演説には熱があり上手だとの評価と同時に、行動を行うにあたっての計画性や実施の細部への関与に乏しいことが指摘されており、主張に一貫性が弱いことも指摘されています。岡村昭彦の刺激的な主張は、新聞記事にも表れています。

 加清純子は、自分の今までの絵画を主とした活動と共に、岡村昭彦を擁護した発言が報道された後、次々と岡村昭彦の記者に対して語った言葉が報道されることをどのように感じたのだろうかと思わざるを得ません。このような中で、純子は昭和27年正月を向かえ、純子の元には「狂賀新年、純子、お前は死ね」と記された年賀状が届いています。

 純子が失踪そして実際には命を絶った後、まだその遺体が発見されるまでの間に報道されている、岡村昭彦の発言を読むと、心が痛みます。

(2)場所

 純子は、札幌を発つ前に、友人に阿寒に行くことを告げていました。苗穂駅から純子は釧路に向かいますが、その時同行した岡村春彦(青銅文学同人、札幌南高校の学生で昭彦の弟。昭彦と春彦が出会うきっかけとなった)には、阿寒に行く意思を伝えていなかったといいます。また家族には、しばらく札幌には戻らない旨、伝えていたといいます。

 札幌から、岡村昭彦と面会するために釧路に発つ時点で、当分札幌には戻らず、阿寒に行くことを純子は計画していたことになります。

 そして、阿寒で死亡した時には、身の周りにはほとんどお金が無かったことから、阿寒で死ぬことは計画的であったと考えてよいと思います。

 なぜ、阿寒なのか。それは、純子にとって特別な場所だったからで、「純子にとって」「終わり」の場所を考えて選ぶとすれば阿寒であったといわざるを得ないと考えています。(ここでは、この様に書くにとどめます。)

 そしてなぜ釧北峠へ向かったのか

 旧釧北峠の道路は昭和40年~昭和44年(1965-69)の道路工事により拡幅され付け替えられ、渡辺淳一が「阿寒に果つ」を書くために取材のために阿寒をおとづれた当時には、静かなさびしい道となっていました。昭和27年当時、旧釧北峠は冬季は通行止めとなるものの、阿寒湖と雄阿寒岳を一望する阿寒国立公園の景観地として知られ、観光客が多くおとづれていたところです。

 この場所に純子はなぜ向かったのか、私はある仮説をいま心に懐いていますが、それが正しいか否かを立証する一枚の絵の行方はわかりません。

 純子は、自分が死ぬところまでは、予想し計画していたとおもいますが、雄阿寒ホテルを出た時点では、釧北峠を登りきることを予定していたのではないかと考えています。

(3)方法

 純子は、アドルムを過量服用した上での、凍死という方法を取ろうとしました。

 当時、アドルム過量服用は、自殺者のとった方法の中で占める頻度は高く、自殺の方法としてはありふれた方法だったと言えます。しかし、凍死による自殺という方法は、報道の中に見られません。
 純子が、アドルムを過量服用した上での凍死という方法を自分自身で考えのではなく、純子がほぼ確実に目にしたと考えられるある事件を参考にしたと考えています。

 先に記したとおり、純子は、自分が死ぬところまでは、予想し計画していたとおもいますが、雄阿寒ホテルを出た時点では、釧北峠を登りきることを予定していたのではないかと考えています。そして、自分の遺体が、春先まで雪に隠されることになるとは思いもしていなかったのだろうと、私は考えています。


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